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歴史

1670寛文元年

池田源兵衛、弘前に

この年、4代弘前藩主・津軽信政が、小浜藩(福井県)から「研ぎ出し変わり塗」の技術を持った塗師・池田源兵衛を召し抱えます。源兵衛は、さらなる新技術習得のため、1685(貞享2)年、江戸の塗師・勘七(青海波塗を発明し青海太郎左衛門を名乗る)の弟子となりますが、翌年客死してしまいます。1697(元禄10)年、源兵衛の息子・源太郎は、父の志を継ごうと、藩に無断で江戸に上り勘七に師事します。1704(宝永元)年、弘前に戻ることを許された源太郎は、藩の塗師となり、青海波塗を伝え、後に青海源兵衛を名乗りました。江戸時代は、幕府により奢侈禁止令が度々出され、弘前藩内でも1711(正徳元)年、漆器への蒔絵装飾を禁ずる法令が出されました。このような背景から、このころ金加飾の代替として石黄(三硫化二砒素)を用いた黄漆、石黄と青黛(藍)を混ぜた青漆などの色漆が開発され、新しい漆芸の加飾法として「研ぎ出し変わり塗」が発達していきます。

1873
明治6年

万国博覧会と津軽塗の誕生

この年、津軽で製作された「研ぎ出し変わり塗」の文庫、提重箱、菓子箪笥、煎茶箪笥が「津軽唐塗」の名称でウィーン万博に出品され、有功賞牌を獲得します。ちょうど19世紀後半の西洋では、有産市民階級(ブルジョワジー)のあいだで日本の手工業製品が大ブームになっていました(ジャポニズム)。日本政府は、手工業製品を欧米向けの主力輸出品と位置付け、万国博覧会への出品、国内での内国勧業博覧会の開催に力を入れます。そこで、博覧会事務局を通じて、全国から広く出品物を募ったのです。さらに、1876(明治9)年のフィラデルフィア万博に際しては、博覧会事務局の事務官と画工が、出品物の図案(design)を作成し全国の産地に配布したり、産地から寄せられた図案を修整したりしました。津軽からは、博覧会事務局事務官・中島仰山から提供された図案をもとに6代青海源兵衛が制作した紙台、書状棚、手袋箱などが「家具韓塗」の名称で出品され、銀賞を獲得しています。この過程で、津軽の「研ぎ出し変わり塗」は地域性を持たされ、「津軽塗」と呼ばれるようになっていきます。

1880
明治13年

産業化

この年、山田皓蔵・伊藤正良らが、弘前市本町に「漆器樹産会社」を設立します(結社人員53人)。山田は、1874(明治7)年から篤志家たちの犠牲的援助を受け漆器製造を始めていましたが、製造拠点が明治13年大火で焼失したことを機に同社を立ち上げたのでした。1883(明治16)年には、和徳町に8代青海源兵衛を工長に迎えた「漆器製造所発誠社」が設立されます(結社人員26人)。ちょうどこの頃、日本政府は、反政府運動激化への対策として士族への勧業資本金交付を拡大しており、1882(明治15)年以降300余万円を支出していました。「漆器樹産会社」は、1884(明治17)年、この勧業資本金50,000円を貸与され、漆器製造事業の基礎を確立させます。1890(明治23)年には、「漆器樹産会社」が政府からの勧業資本金の返済を終え、初代斎藤熊五郎が百石町に「斎藤漆器店」を設立します。1897(明治30)年になると、弘前市に大日本帝国陸軍第八師団司令部が置かれたことで地元経済が好転し、軍人を顧客として津軽塗の生産も増大します。「漆器樹産会社」は明治末頃までには人手に渡り、その店舗は昭和初期に田中三郎が設立した「漆器合資会社」に受け継がれました。これが、2017年まで続いた津軽塗の老舗「田中屋」の前身です。

1905
明治38年

実業教育の模索

この年、加瀬貞吉が発起人となり「津軽塗生徒養成所設立趣意書」が青森県に提出されます。これが実現し、1907(明治40)年、青森県工業講習所に漆工科、木工科が開設されます。全国的な背景として、明治20年代頃から日本の産業革命が進展し、日本政府は、各産地の実業教育をリードする学校や試験機関の技術指導者の養成に力を入れていました。その養成を担ったのが、1886(明治21)年に設置された東京美術学校(現・東京芸術大学美術学部)と、1890(明治23)年に東京職工学校から改称された東京工業学校(現・東京工業大学)でした。1910(明治43)年になると、工業講習所を母体に、徒弟学校規程に基づく青森県立工業学校(現・弘前工業高校)、同校漆工科工場が設立されます。漆工科教諭長として、岩手県出身で東京美術学校を卒業した小岩峻が赴任しますが、徒弟制度を固辞しようとする地元職人からの理解が得られず、漆工科は1918(大正7)年に廃止され、小岩も弘前を離れ東京に戻ることになりました。

1912
大正元年

ななこ塗の導入

この頃、弘前藩の毒味役から塗師に転身した奈良丹次郎が、幕末・明治期に「研ぎ出し変わり塗」の地模様として用いられていた「ななこ塗」の技法を産業化以後の津軽塗技法として取り入れ、普及させました。1915(大正4)年には、丹次郎の息子・奈良金一が、ななこ地に紗綾形、唐草模様を筆書きする「錦塗」を、現在知られている意匠として完成させました。

昭和初期

大衆化、網仕掛箆の誕生

この頃、津軽塗も世界恐慌の煽りを受けて不況に陥り、贅沢品から大衆向け製品への転換が計られました。具体的な方策として、森山柾吉、政蔵親子が下駄に津軽塗を施しはじめました。また、「斎藤漆器店」作業場で修行し、東長町の「鈴木多一郎漆器製作所」の工場長をしていた佐々木元一が、現在の唐塗の仕掛けに用いられる、蜂の巣状に穴の空いた木箆「網仕掛箆」を発明しました。これにより、均一に同じ斑模様の唐塗製品を量産できるようになりました。

1931
昭和6年

工芸指導体制の確立

この年、青森県工業試験場内に工芸指導部が設置されます。初めは設備が揃わず図案を中心とした業界指導を行っていましたが、1933(昭和8)年に工芸指導部工場が完成し、工芸関係技術の指導体制が確立します。全国的な背景として、1928(昭和3)年、日本唯一の国立工芸管掌機関「商工省工芸指導所」が仙台市に設置されました。工芸指導所は、在来の手工業に最先端の科学・技術を応用することで、新たな海外市場向けの輸出品を開発することを目的にしていました。工芸指導所により、東北の在来手工業が調査・研究され、中央に紹介されていきました。この工芸指導所で漆芸担当の嘱託員として活躍したのが、大正期に弘前を離れた小岩峻でした。小岩は、青森県立工業学校時代に試験研究していた染料やテレピン油を用いた新たな変わり塗技法「ろうけつ塗」を、工芸指導所で完成させました。佐藤末太郎、神田松太郎などの弘前の塗師が、工芸指導所の講習会で「ろうけつ塗」の指導を受け、「ろうけつ塗」は晴れて津軽塗のラインナップになりました。

1940
昭和15年

戦時下の代替事業

この年、不急不用品・奢侈贅沢品・規格外品等の製造・加工・販売を禁止する七・七禁令が、翌年には、生活必需物資の生産・配給・消費・価格などを全面的に統制する生活必需物資統制令が発布されます。これによって、工芸材料の入手が困難になり、製品販売価格も厳しく制約されることになりました。全国の工芸関係団体から陳情が寄せられたことから、商工省は特例として、保存すべき技術者の資格認定制度(「丸技」)を設けます。津軽塗では、田中三郎、奈良金一、2代斎藤熊五郎、嘉瀬清夫、鈴木多一郎、菊池敏時の6名がこの認定を受けました。漆器の製造販売が困難な中で、青森県工業試験場は、2つの代替事業で戦時下を乗り越えています。1つ目は、軍からの受注による勲章箱の製造です。1941(昭和17)年、弘前市南川端町に遺家族授産所として勲章箱製造場が設置されます。ここで女性たちが布着せまで行った勲章箱を、津軽塗漆器組合が黒塗立に仕上げ、3000個が軍に納められました。2つ目は、代替塗料で鎌倉彫を模した「津軽彫」の製品化です。1943(昭和18)年、和徳町の漆問屋「越前屋漆店」が店の倉庫を改装し、同じく遺家族授産を目的に「津軽彫」の下駄を製造する「弘前授産場」を稼働させました。

1954
昭和29年

津軽塗青年研究会結成

この年、熊谷慶造(仙真)を会長に、後継者世代の塗師や木地師46名が「津軽塗青年研究会」を結成します。前年の1953年、青森県商工部は、津軽塗漆器産業を生産技術・経営・経理及び原価計算・労働・流通・金融・組織の10視点から分析し、改善指針を樹立するため、東京工業大学教授・磯部喜一らを診断員として招聘し総合的産地診断を行いました。診断結果をまとめた『津軽塗漆器産業診断勧告書』では、業界の封建的な性質と、後継者世代のモチベーション向上の必要性が指摘されました。これを受けて結成されたのが「津軽塗青年研究会」なのです。津軽を起点に始まった後継者世代の活動は全国に波及し、1956(昭和31)年には会津などから12県14団体が集まり「日本漆器青年研究会」が結成、第1回総会が弘前市で開催されました。「津軽塗青年研究会」の活動は多岐に渡ります。1957-1959年には研究会の植林委員会が、弘前市の久渡寺境内の土地30アールに漆苗の植林を行いました。また、1958(昭和33)年には須藤八十八ら会員6名が職業訓練法による技能者養成指導員の資格を取得し、翌1959年から1963年までのあいだ、事業内職業訓練漆工部会として漆器関係従業員対象に工芸教室を開講していました。しかし、世代交代によって「津軽塗青年研究会」の会員が業界の指導的立場につき始めたため、1966(昭和41)年頃には同会は自然消滅していきました。

1973
昭和48年

津軽塗団地協同組合設立

この年、津軽塗団地協同組合が設立されます。1970(昭和45)年、弘前市経済部商工課は、津軽塗業界の具体的問題点の摘出と改善方向の提示を目的に、企業診断士・長井富雄、角実、千葉大学工学部助教授・音丸馦らを特別診断員とし「津軽塗産地診断」を実施しました。翌1971(昭和46)年に出された勧告書『津軽塗産地診断報告書』では、改善策として企業間の協業化(共同販売体制・分業体制の確立、工場共同化事業の推進)が提言されました。これを受けて構想された津軽塗業界初の生産団地が、津軽塗団地なのです。1974(昭和49)年から弘前市堅田宮川の一角で工場建設がはじまり、1975(昭和50)年には木地製造2社、漆器製造3社が初年度建設企業として操業をはじめます。遅れて漆器製造3社が加わり、津軽塗漆器の販売店舗も団地内に完成します。これによって、「津軽塗産地診断」でなされた協業化の提言が実現することとなりました。

1975
昭和50年

無形文化財津軽塗調査・紋紗塗の再評価

この年、前年に制定された「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」により、津軽塗が「唐塗」「ななこ塗」「錦塗」「紋紗塗」の4つの技法で伝統的工芸品に指定されました。また、生活様式の変化による民俗資料・文化財の喪失の危惧から、青森県教育委員会は伝統的工芸品に指定されたばかりの津軽塗を工芸美術の面から技法分析・記録し、無形文化財として保護することを目的に「無形文化財津軽塗調査」を開始します。幕末から昭和初期の津軽塗60点を対象に、青森県工業試験場漆工課長・望月好夫が写真撮影・絵図作成、主任研究員・藤田清正がルーペでの塗装仕様確認・調査対象リスト作成、技師・九戸眞樹が実測・作業状況記録を行ないました。この調査の成果は翌1976(昭和51)年、『津軽塗 青森県無形文化財調査報告書第1集』として発行されました。伝統的工芸品への指定、無形文化財津軽塗調査をきっかに紋紗塗が再評価されることになります。これまで、ごく一部の塗師に伝わるに留まっていた紋紗塗は、調査報告書での優品紹介と技法解説によって多くの人の知るところとなり、この技法に挑戦する塗師が現れはじめました。

1985
昭和60年

新色・新パターンの模索

この年、久保猶司、真土藤幹、三浦吐夢治ら5名の若手塗師が漆集団「游工房」を立ち上げます。「游工房」は、東京在住のプロダクトデザイナー・三原昌平から助言を受け、段ボール、アルミホイル、発泡スチロール、靴底など様々なモノを仕掛け(模様付け)の道具に見立てた新パターンの津軽塗の開発に取り組みました。彼らが試行錯誤した沢山のパターンの中から三原が選定した12パターンの津軽塗は、「ネオツガル」と名付けられました。そして翌1986(昭和61)年、「ネオツガル」は三原からの出資、プロモーションを受け、東京六本木のAXISギャラリーアネックスで大々的に発表されました。この取り組みが呼水となり、津軽塗業界では、新しい色彩やパターンの模索が行われます。たとえば1986(昭和61)年、青森県工業試験場漆工課は、地元の塗師たちとともに新たなパターンの開発を目指すデザイン研究を行なっています。また1990(平成2)年、津軽塗団地協同組合の青年部に各社の若手塗師が集まった「新色倶楽部」が発足します。彼らは「色彩的自由人」を自称し、翌1991(平成3)年には、京都(京都市美術工芸ギャラリー)、東京(AXISギャラリー)で展示会を開催しました。

2005
平成17年

後継者育成開始

この年、青森県漆器協同組合連合会、弘前市、弘前商工会議所で構成された弘前市雇用機会増大促進協議会が、厚生労働省の地域提案型雇用創造促進事業の枠組みを利用し「伝統工芸津軽塗担い手育成事業」(2ヶ年)を開始します。このなかの「担い手確保事業」「後継者育成事業」は、津軽塗の担い手を新たに一から確保し育成するという革新的なものでした。「後継者育成事業」では、2005年度(前期・後期)、2006年度(前期・後期)の4期に渡って津軽塗の技術習得を目指す若者向けの研修が実施されました。4期延べ15名の受講者のうち、ゼロから始めた未経験者は7割を占めましたが、その内7名が現在でも塗師や漆芸作家として活躍しています。その後、この事業は青森県漆器協同組合連合会が弘前市からの助成を受けた「津軽塗後継者育成研修事業」に引き継がれ、多くの若手塗師が巣立っています。

2017
平成29年

国重要無形文化財に指定

この年、津軽塗が文化財保護法に基づく国重要無形文化財に指定され、津軽塗技術保存会がその保持団体に認定されます。さかのぼること1995(平成7)年、旧弘前藩主・津軽家から514枚にも及ぶ幕末・明治期の「研ぎ出し変わり塗」の手板(模様見本)「津軽漆塗手板」が弘前市立博物館に寄贈されました。この手板には、産業化以降に伝承されなかった多様で複雑な模様が数多く含まれていました。この一度途絶えた技法を調査するため、2002(平成14)年、前年設立されたばかりの津軽塗技術保存会に津軽塗手板調査会が設けられます。2003年には「津軽漆塗手板」が青森県重宝に指定され、2004年、津軽塗技術保存会は、「津軽漆塗手板」にある模様を「古津軽塗」とし、古津軽塗技法再現作品の製作を開始します。毎年、会員の塗師たちが工程見本の手板や、「古津軽塗」の模様が施された盆、椀、重箱などの製作を行なってきました。国重要無形文化財への指定は、その成果が認められたものです。

2021
令和3年

津軽漆連設立

この年、津軽塗の産地振興を目的とした「津軽漆連」が発足します。発足の経緯は、弘前大学大学院地域社会研究科客員研究員の髙橋憲人とギャラリーCASAICO代表の葛西彩子が、「消費者が津軽塗を見たり、津軽塗についての情報にアクセスしたりしたくても、津軽塗の全体像を俯瞰できるような場所やポータルサイトが存在しない」「津軽塗の定義が複雑・曖昧であり、消費者に伝わり難い」「津軽塗の近現代史が整理されていない」「2000年代以降の後継者育成事業出身の若手職人の交流・情報共有の場が存在しない」等の産地の問題を、若手職人たちと協議していく組織が必要であると思い立ったことに始まります。1月に何人かの若手職人を交えて意見交換を行ったところ、津軽塗業界の青年部のような団体を立ち上げるという方向で話がまとまりました。その後、若手の塗師、木地師、弘前工業研究所デザイン推進室の研究員、弘前大学の教員、津軽塗製造会社の経営者、地元のデザイナーや文筆家など多様な人々を巻き込み「津軽漆連」は活動しています。